AOC Cidre Pays d’Auge : 歴史と評価

シードル・ペイドージュの歴史と評価

ノルマンディーのシードル生産の発展は、11世紀 Pays Basque(Biscaye)バスク地方からタンニンを豊富に含むリンゴの品種が導入されたことによって始まった。 これら、ノルマン人の船乗りによって持ち込まれ、接木された品種は、(Auguste Chevalierによると) Malus silvestris と Malus domesticaの交雑だとされる。 そうした品種を醸造に使用することで、果汁中に含まれるフェノール化合物(タンニン)によって、発酵速度は遅くなり、果汁Moûtsは保護され、清澄も容易になり、シードル製造は著しく進歩し、品質は向上した。 この時やって来た「Bisquet ビスケ」という名の品種は、現在でも現役の醸造用品種として栽培されており、古くからこの地域全体にシードル製造技術が普及していたことは、Tours à piler(石造りの円形の溝・車輪からなるリンゴを砕く装置)が、今でもペイドージュの各村に残っていることが証明する。

13世紀初頭、ペイドージュの名声は高まる。 1259年、Saint-Louisは、度重なる飢饉に対処するため、穀物を原料とするビールの製造を禁止、それらを食糧供給に充てた。その結果、シードルは Cervoise(ビール)に取って代わり、急速に飛躍。 詩人 Guillaume le Bretonは 「Cidre fermenté du pays d’Auge ペイドージュの発酵シードル」を称賛。  François Aubaile-Sallenaveは 『当時、この飲み物はすでに商業的に重要なものだった。なぜなら、Mortain伯爵は Saint-Evroultの修道院長に Barnevilleのシードルの「十分の一税」を寄付しており、それはペイドージュの他の教区でも支払われていた』と記す。 (十分の一税:宗教組織を支援するため、自発的に寄付・租税・徴税として支払う、ある物の十分の一の部分のこと。歴史的には農作物での支払いが可能であったという)

13世紀~14世紀、 プレス機の出現により、製造技術はさらに進歩。 この飲み物は、ノルマンディーで生産されていたワインの品質と肩を並べ、次第にその地位を奪うようになり、ブドウ畑は衰退。 

16世紀、ノルマンディーのワインの低迷は、飢餓をもたらした天候によって拍車がかかる。1566年、Charles IX シャルル9世の条例により、 ブドウ園を 牧畜と耕作に利用するため、ブドウの木は強制的に引き抜かれ、その施策は1577年からHenri III アンリ3世によってさらに強化された。 こうして、ノルマンディー(特にペイドージュ)の農地はリンゴの樹で覆われ始める。 さらに、この地域の気候条件が 比較的ブドウ栽培に適しておらず、リンゴ栽培は耕作地や牧草地と共存できるため、この地に定着した。

1573年、Henri IV アンリ4世の医師でノルマンディー出身の Julien le Paulmier の出版した「Traité du vin et du sidre」(シードルに関する最初の著作)では、その当時、すでにシードル製造技術の習得が進んでいたことを示す。 その本には、82品種のリスト、優れた生産者、地域による様々な生産方法の解説、また、香りに基づく分類などが掲載され、初めて「テロワール」という概念がシードルに適用された。 また、ワインとシードルに関する論文「De Vino et Pomaceo」の中でも シードル・ペイドージュの特性に触れ、それらは『甘くて繊細なコトンタン産よりも、海軍に求められていた』とある。 2~3年船上で長期保存されたペイドージュのシードルは『より苦味と香りが強い』と言われ、16世紀の作家 Charles de Bourguevilleは『飲むことのできる 最も優れたもの』だと評価した。

1754年、Chambray侯爵は 「L’Art de cultiver les pommiers, les poiriers et de faire des cidres selon l’usage de la Normandie」という小冊子の中で、この地域の優れたテロワールについて次のように述べる。 『どのような土壌が最高のシードルを生み出すか、一概に言うことはできない。それは経験のみが教えてくれる。ノルマンディーの最も肥沃な土地、Isignyのあるコトンタンと ペイドージュは、素晴らしいシードルを生産している』 。 さらに、土地だけでなく 『シードルの美味しさに大きく貢献するリンゴについては、常に最も評価の高い品種にこだわらなければならない』と指摘。 また、Parcs Naturels régionaux de Bretonne et de Normandie-Maineから出版(1982)された「Poires et pommes」の著者たちは、「La pomme et le cidre en Pays d’Auge」の中で 『1778年、Ecotsにある J. Levillain農場の死後調査で、8,800Lのオドヴィと75,000Lのシードル・ポワレの貯蔵容量が報告されていおり、それは平均的な農場だった』と、J. Manoeuvrierの言葉を引用し、その頃のペイドージュでは、リンゴ酒の生産が盛んだったことを報告。 

18世紀~20世紀初頭、ボカージュの牧草地で覆われていたペイドージュでは耕作は行われなかった。 その代わり、この地方では畜産とシードル用果実栽培を中心とした農業システムが発展。 それは Haute-tigeの果樹園で、互いを補完する形で行われ、果樹・牧草・群れの管理を組み合わせた技術がとても良く習得された。

19世紀、交通機関の発達によってパリの市場に供給できるようになると、ペイドージュのシードル生産はピークに達し、特別な価格で取り引された。

19世紀末、瓶内発泡製法の開発により、火入れ・殺菌をせず、ボトルに炭酸を含んだ Cidre Bouché シードル ブーシェの生産が出現、発展した。それは、果実を破砕・圧搾する時間が長く、ピュルプのCuvageキュバージュによって搾汁が酸化し、好ましい色調となる。 Cidre Bouché シードルブーシェは、当初、特別な日のために消費されるようなものだったが、20世紀半ば以降、ワインと比較して普及が進まなくなった。 一方で、炭酸ガスを添加したり、加熱殺菌したシードルが発展。

1960年代初め、ペイドージュの生産者は、損なわれつつあった伝統的な生産方法を守るため、Cambremer カンブルメー産地内で組織化。

1987年、シードルの生産に濃縮果汁の使用を許可する法令が発表されると、伝統的な生産者は品質の低下を懸念して反発。 ペイドージュの特異的な製法と名声を守るため、Cidre Pays d’AugeのAOC承認を要求し、1996年、それは実現した。 その後、AOCに相当する欧州の原産地呼称保護制度である AOP(appellation d’origine protégée)を取得。

2022.11.16 Ko HAYASHI


Photo:Vallée Blanche CHAMONIX-MONT-BLANC 2008.1.15 Vallée Blanche ヴァレブランシュは、ロープウェーでアクセスできる、世界で最も美しいオフピステの一つで、標高差 2,700m以上、約20kmを滑り降りることのできる、 憧れの「白い谷」。 シャモニーには、その旅の一番最後の目的地としてやって来た。 安宿に泊まり、Bréventブレヴァン、Grands-Montetsグランモンテなど、1週間滞在してゲレンデを満喫。だが、その谷を滑ることは叶わなかった。 不可欠な装備も無く、冷たい強風の吹く 極寒のAiguille du Midi(3842m)エギーユ・デュ・ミディに降り立った時点で、すでに懐も寒かった。